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プロフィール ~Profile~

劉 福君

劉 福君 〔リュウ・フジュン(中国読)、りゅう ふくくん(日本読)〕
熊本市在住
NPO法人 日本二胡振興会 副会長
中国民族管弦楽学会 胡琴専業委員会 名誉理事

1963年 中国吉林省遼源市に生まれる。父兄の影響で5歳よりニ胡を始める。
1985年 吉林省芸術大学でニ胡を専攻し、ニ胡教授「王恩承」氏に師事。卒業後、吉林省民族楽団にニ胡演奏家として入団。1993年 熊本大学教育学部音楽科に留学。
1995年には『阪神大震災 被災者救済チャリティコンサート』、1996年には熊本県立劇場で行なわれた『大地の子チャリティコンサート』は満員の観客を集め、好評を博す。1998年12月『中国洪水災害』チャリティコンサート、2008年6月『中国・四川大地震被災者救援緊急チャリティコンサート』2011年9月「福島県いわき市の仮設住宅、デパートで復興支援演奏」、2016年7月ニ胡教室の生徒たちと「熊本大地震チャリティコンサート」開催するなど積極的にチャリティコンサートに取り組んでいる。2001年、2005年20l0年吉林省民族楽団、北京中華全国総工会文工団来日本九州各地友好交流公演を企画・主催。2007年上海長三角洲民族展演会にニ胡教室の生徒90人程参加。2008年《桜花》日本曲集を編選し、上海音楽出版社出版。2009年世界で活躍するニ胡奏者を集めた「ニ胡サミット」に上海、福岡、東京で出演。同年、日本人向けの「中国ニ胡考級曲集」を王永徳氏と編集、出版。東京の文化シビックホールでリサイタルを開く。2010年上海音楽学院ニ胡検定試験の認定校となる。日本華楽団2013年第3回日本胡琴祭にニ胡協奏曲《紅梅随想曲》演奏出演。2015年第4回 日本胡琴祭「指揮大師 閻惠昌」の指揮でニ胡協奏曲《長城随想曲第一章》を演奏。
九州を拠点に全国で演奏活動を行なうと共に、九州各地(福岡・熊本・長崎・大分・佐賀・宮崎・鹿児島)に教室を開設し日中友好の懸け橋として後進の育成にも積極的に取り組んでいる。現在、「海郷」「海夢」「海恋」「弦音風情」「島の風」「鳥の歌」のCDをリリース。

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春風を奏でるように ~劉福君物語~  (熊本日々新聞連載)


(1)魅せられて・・・熊本足場に

img胡弓の「胡」とは、古代中国の異民族の呼称だ。
その異民族が奏でていたリュート属の擦弦楽器とでも言おうか。南船北馬という。「北と南では胡弓の響きが違います」と劉さんは話す。例えば、上海では、たゆたう運河の水のような甘く切ない。華北の地では、大地を渡る風のように響く。
劉さんのふるさとは中国東北部の吉林省。かつて満州と呼ばれていたところだ。その面立ちも面長で鼻筋が通り、一重まぶた。体は引き締まっている。「もしかしたら騎馬民族の子孫かもしれない」と笑う。父親の生家は遼東半島の庄河という海の美しい地の小地主であったが、中国共産党軍による統一で炭鉱町の遼源へと流れてきた。劉さんは三人兄弟の末っ子。
熊本大学教育学部の音楽科に留学してきたのは93年9月。その前に吉林省民族楽団の一員として演奏旅行にやって来て、日本に魅せられた。
「飛行機が福岡空港に着陸するために、海から町へと降りてきたとき、それは美しかった。それ以上に聴衆が素晴らしかった。お客さんの反応がびんびんと伝わってくる。こんな経験は中国でもなかった。」
熊本大学教育学部では、バイオリンと音楽史を専攻した。バイオリンの経験はまったくなかった。弓で弦を擦るところは同じ。バイオリンは肩に、胡弓はひざに立てて奏でる。バイオリンの弦は四本だが胡弓は二本。
バイオリンのための曲を劉さんはときどき演奏会で弾いてみせるが、四弦を二弦でやるわけだから超絶技巧を要するらしい。
二年の留学を終えた後も熊本に残った。「熊本を足場に胡弓演奏家として世界を相手にやってみたい」と思ったためだ。一年間のビザの延長が認められ、県内を中心に演奏会活動を始めた。熊本メルパルクで開かれたリサイタルに出かけ、いたく感動した人がいた。平田和子さん(55)。「泣いちゃいましたよ」。和子さんの中にも中国人の血が半分流れている。阿蘇郡高森町での演奏会に和子さんは娘の智子さん(26)を誘った。
それから二年半後。熊本市新町2丁目にあるマンションの日当たりのいい部屋。胡弓の練習をしている劉さんのかたわらで妻の智子さんが生後7ヶ月の長男、翔太君をあやしている。「翔太に小さなときから聴かせてあげたいんです。僕が昔、父親にしてもらったように」

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(2)懐かしい親戚のような

img劉さんと付き合うようになったころ、「明るい人だな」と智子さんは思った。「なんとなく中国人は暗いというイメージを持っていたんです」。明るくて、前向き。話をしていても中国人だと意識しなかったという。年も八歳上。「大人なんです。けんかにならない」と笑う。劉さんは熊本市上通りのビルの一室で胡弓を教えていた。その向かいにあるギター教室に智子さんは通っていた。ギターのレッスンが終わると、劉さんの教室に顔を出した。
ある日、NHKテレビでやっていた「大地の子」が話題になった。「泣いたよ。かわいそうだよ。彼に比べると、僕は幸せな方だよ」と劉さんは智子さんにもらした。「中国の文化革命のとき、福君はずいぶん辛い目にあったらしいですね。」しかし智子さんは自分からあまり夫の昔のことは聞かない。「いまが一番大切であり、そして将来が。過去よりも未来」劉さんの故郷もまだ訪れていない。新婚旅行は北海道だった。そしてハネムーンベビーを賜った。いま、育児休暇だが、ほどなく職場に復帰する。智子さんは熊本市内の病院に勤めている。
二人が知り合って劉さんが智子さんの家に遊びに来るようになった。母親の和子さん(54)は大歓迎だった。面白くなかったのは父親の幸二さん(56)。県庁出入りの洋服屋さんで、「娘の結婚相手は公務員に限る」と決めていた。三人が楽しげに話しているのを背中で黙って聞いていた。智子さんの兄も賛成に回った。もはや一人、反対を続けるわけにはいかない。「じゃ、劉君のご両親に会って来よう。一緒に旅をしたら、彼の性格もつかめるだろう」帰ってきた幸二さんは、親指と人さし指で「合格」とマルを作ってみせた。「友達が素晴らしい。あんなにいい友達を持っているということは彼もまたいいということだ。」幸二さんは劉さんの実家を訪ね、一族と会った。劉さんの両親は息子を宜しく頼みます」と強く手を握った。懐かしい親戚に会ったような気がした。幸二さんはゴルフのし過ぎで肩を痛めていた。それを知った友達が中国バリの専門家である友人を連れてきた。ホテルにも泊まり、ついには一緒に旅して回った。その年の十月、加藤神社で晴れて式を挙げた。しかし四月には婚姻届を出していた。劉さんのビザが切れそうになっていたためだ。このことを知らなかったのは幸二さんだけだった。

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(3)文化大革命で悔しい思い

img中国で文化大革命の嵐(あらし)が吹き始めてたのは一九六六年五月。劉さんはまだ三歳のときで、1十年間続いた。向こうから行列がやってくる。三角帽をかぶらされ、首から札を下げた人たちがうつむきながら、歩かされており、その後ろから紅衛兵たちが大声で叫んでいる。「その三角帽をかぶらされた一人に父がいた。それを人の間から見てしまった」と劉さんは語る。「たぶん、まだ小学校にあがる前だった」。
炭鉱で働いていた父は、職場で糾弾を受け、家に帰れない日が続いた。夜、六歳年上の二兄と弁当を届けにいったら、暗くてせまい部屋に閉じ込められていた。父は「心配するな、お母さんの言うことを守るんだよ」と言った。「父には何も罪もなかった。ただ地主出身ということだけなんです」。「地主の子だ」といじめられた。中国の映画では地主が出てきて、残酷なことをやった。意味もわからず、子供たちは「地主が悪い」「地主の子は悪い」といじめた。
父は子供たちを家に閉じ込めた。出ていけばいじめられ、反抗すれば「劉家の子が悪い」となる。家から出さず、「さあ胡弓を弾こう」と父は言った。「父や兄たちが胡弓を弾き、それにあわせて私が歌う。楽しかった。胡弓を一家でやるような家は近所になかった。」
両親は幼い頃からのいいなずけだった。故郷を出て、吉林省の遼源で雑貨屋をやっていた父親を母親が探し出し、一緒になった。親たちが決めたいいなずけで、顔を合わせたのはそのときが初めてだった。
その母親が建設工事現場に働きに出た。一緒に働いていた女性が高い足場から踏み外し死亡するという事故があった。「現場を見に行って、足が震えた。こんな危険な所で母は働いているのかと。しかし、母は正直で我慢強く、どこに行っても人気があった。」
二人の兄たちが農村へと下放された。「でも、胡弓が上手になると先生が守ってくれるようになった。友達もできるようになった。」
小学校四年のころ、学校の楽団の友達を誘い、二兄を訪ねていったことがある。馬車に乗せてもらったり、テクテク歩いて片道六時間。「あれは僕たちにとって大冒険だった。」と懐かしく思い出す。兄は慰問楽団に属していた。大きななべで煮たトウモロコシを食べさせてくれた。おいしかった。
劉さんは切々と胡弓を奏でる。「あのころの悔しい思い、父や母の悲嘆、それらを思い浮かべると胡弓が震え、泣き出す。それを聴いて、皆さんもまた涙を浮かべます」

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(4)「芸の奥」知りたくて長春へ

img昨年末、熊本で公開された「變臉(へんめん)」という中国映画があった。
「変面王」といわれた大道芸人とその老人に買われた女の子の話だが、「あの芸を必死に盗もうとする少女の気持ち、痛いように分かったよ」と劉さんは話す。
いったん芸というものに触れたら、その奥を知りたくなる。「それは子供も大人も変わらない」
父から胡弓の手ほどきを受けた劉さんは小学、中学校と楽団の隊長となった。劉さんは「学校のスター」だった。
音楽学校に進学したかったが、家は貧しかった。炭鉱町の遼源にはそうした学校はなく、長春に出るしかなかった。母が隣の家から五元借りてきて与えた。長春駅に着いたときには寒さと空腹で倒れそうになった。
翌日試験を受けに行ったが、手が凍えて動かない。ストーブにかざして、指を温めたが、試験には失敗した。一人、自分よりうまい少女がいた。それを窓の外から聴き帰ってきた。
地元の高校を出て、炭鉱労働者になったが三ヶ月で辞め、仕立屋になっていた父の仕事を手伝った。仕立屋といっても百貨店の前にミシンを一台置いただけの露店。客が買ってきた布を裁断し、切り口がほころばないように縫うだけ。吹きさらしで、冬は寒かった。「あのころ、ラッパズボンがはやった。日本の映画の影響。高倉健が人気があった。」
客が途絶えると胡弓の練習に家に飛んで帰っていた。「そのことで父と何度もケンカになった。父は楽しみとして胡弓を与えたが、私はこれでもって人生を生きようと思うようになっていた。」
一年半後、遼源市の民間芸術院に団員となったが、長春の吉林芸術学院で学びたいとの夢は捨てきれなかった。雑技団にいた二兄の世話でときどき長春に出かけ、「瑞木先生」という胡弓の名人に見てもらった。「汽車賃がなく、友達の父親である駅員に頼み、石炭輸送の貨車にもぐりこんでいた。」
実技は自信があったが、筆記試験に歴史や数学が出てきて、不合格。二度目に合格した。その間、同学院に進み、「自分はネクラだな」と気づいた。「音楽をやるからには性格が明るくならなければ、と自分を変えようと思った。毎朝ジョギングをし、バスケットをやり、体も鍛えた。友人もいっぱいできた。妻は私を明るい人だといま、言ってくれます。」

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(5)いろんな人に支えられ・・

img劉さんは料理が得意だ。台所に立つのが少しも苦痛ではない。「今日は私が当番ね」と言って、夕食を作る。それが実に手際がいい。あっという間に、料理がテーブルに並ぶ。テレビの「料理の鉄人」のファンだ。スーパーにも買い出しにいく。「日本の男性はそこまでやってくれない。いい人を見つけた」と妻の智子さんはうふふと笑う。「お惣菜を作らせたら、私はプロ」と劉さんは威張って見せる。
熊本大学教育学部音楽科に留学して来て、最初にアルバイトをしたのは大学の近くのギョウザ屋さんだった。そこに四ヶ月ほど働き、岩田屋八階にある中華園に移った。「ご主人がやさしい人で、『音楽家なら、手が荒れてはいけない』と皿洗いをさせてくれなかった」。交通センター地階に中華園がお惣菜の店を出し、そこでフライパンを握るようになった。
私費留学だ。授業料から生活費まで全部、自分が稼がねばならなかった。身元引受人の福岡市在住の胡弓の大家、趙国良先生に「お金はあるの」と聞かれ「はい」とミエを張ったが、無一文だった。すぐにバレてしまい、趙先生の義弟李健さん(母親が日本人残留孤児)がお金をこしらえてくれ、趙先生が布団を持たせた。趙先生は、吉林省民族楽団の大先輩である。「まったく日本語が話せない。言葉には苦労しました。でも、私を引き受けてくれた熊大の渡辺学、吉永誠吾先生のほうがもっと困惑されただろう、と今になって思います」いろんな世話になってきた。
趙先生の紹介で琴演奏家の井上通代さんには部屋探しから付き合ってもらった。ギョウザ屋さんにアルバイトの話をつけてくれたのも彼女だ。留学期間が終わり、上通りのビルの中にあった「オフィスさらら」に一年間勤めた。「中国大好きの人々が集まってくる店」で、経営者の末藤朋子さんはリサイタル等も企画してくれた。いま、末藤さんは上海に店を開いている。初めてリサイタルを開き、びっくりした。アルバイト先のお惣菜屋さんのまわりの店の主人やパートの人たちが花束を持って大挙して来てくれていた。最初のアルバイト先のギョウザ屋の奥さんもにこにこ笑いながら、近づいてきて「おめでとう」と言ってくれた。
ところで劉さんが好きなもう一つの番組は大相撲だ。貴乃花の大ファン。「相手を押し出すときにも乱暴にはしない。けがをしないよう手で支えたりする。そのやさしさが好き」

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(6)胡弓一筋、海外演奏もしたい

img「とにかく辛抱です」
劉さんは胡弓の生徒さんにまずそう言い渡す。姿勢を正し、右手に弓を持ち、二本の弦の間をただただ左右に動かす。これが難しい。
ちゃんと弓が動き出したところで「春の小川」から始める」3(ミ)5(ソ)6(ラ)5(ソ)・・。胡弓の楽譜は五線譜でなく、数字で表される。ここまでくると練習が楽しくなる。
熊本市新町のマンションに劉さんの自宅と「胡弓教室」はある。そのマンションは義父の平田幸二(56)さんの経営だ。教室には七十八才のお年寄りから十三歳の中学生まで通ってくる。長崎市にも教室があり、月に二度、高速道路を愛車を飛ばしてでかける。来月からは大分市でも教室を開く。
「胡弓は東洋のバイオリンです」というのが劉さんの考えだ。「いや、東洋人にとってはもっと感情豊かに表現できる」と言う。その音色は人間の声に近い。「だから歌うように奏でるのです」。「赤とんぼ」「五木の子守唄」「夏の思い出」「ちんちん千鳥」「出船」「月の砂漠」・・。次々と劉さんは弾いてみせる。かぐや姫の「神田川」、美空ひばりの「悲しい酒」、「川の流れのように」。頭の中に楽譜が詰まっている。「クラシックが演歌より高級という考えはとりたくない」。ピアノや日本の琴、ギターなどとも合奏する。吉林省民族楽団の先輩で、佐賀県多久市に在住する江舟さん(琴)、趙勇さん(楊琴)と組むこともある。
中国の音楽事情もずいぶん変わってきている。西洋音楽が台頭し、若者たちもロックなどを好むようになってきた。電子楽器も普及しており、伝統的な楽器は押され気味だ。「百花繚乱です。でも国家公務員扱いだった民族楽団の団員たちも自立を求められている。日本にやってきたいともらす仲間は多い」。
結婚して、子供が出来て「劉さん、明るくなったね」と皆から言われるという。さてこれから。「道は一筋。胡弓の道です。いろんなことをやりたい。コンサートも自分で企画したい。海外演奏もしたい。その前にもっともっと胡弓を知ってもらいたい」。小学校や老人ホーム等から頼まれると、「ボランティア精神」で出掛ける。日本の童謡を奏でると、お年寄りは涙を流す。子供たちも静かに聞き入る。父母たちは感激してしまう。「日本のメロディの美しさを胡弓の演奏で再発見してくれるんです」。

劉音楽興社

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